ふぁんしいONLINE


街という名の迷宮
天空の迷宮
藤 久(1995年)

 高く突き抜ける様な空。雲ひとつなく。
星が輝くように透き通ったその空に久志は戸惑っている。
いったいどうしたことか。初めて空が青いことを知ったかのような新鮮な驚きを感じながら、自分が今まで何をしていたのか自問し、驚異と恐怖を抱いた。そんなことも忘れていたのだ。永くうつむいたまま生きてきたのか。空を見上げる余裕さえ無かったのか。
 白黒のモノトーンの書類に追われる忙しい中、無理してここまで来た甲斐は在った。美湖にこそ感謝しなくてはならない。

 空を見たいと言い出したのは美湖だった。美湖は美大の卒業制作のモチーフとして「空」を選んだ。久志は空を描くと言うので、深い緑の森林を淡く照らし出す幻想的な星空のように叙情的なものか、まがまがしい雷雲が厚く堆積するような宗教画にも在りそうな力強いものを描くのだと考えていた。まさか、雲ひとつ無い空を描くのだとは思いもしなかった。
 それで、どう描くつもりなのか美湖に聞くと、大きく丸い瞳をさらに丸めて驚く様な悲しむ様な顔をした。そんな事も解らないのと言った具合だ。
久志は苦笑する。
美湖は寂しげな瞳を少し伏せた。
印象的なその瞳が久志に昔を思い起こさせた。美湖に自分はもう書かないのだと言った頃を。青春と呼ぶのに何ひとつためらいを必要としないあの頃を。

 久志が始めて小説を書いてから何年もの月日が流れている。短編物の幻想的で非日常的な物に終始していた。自分の憧れや懐郷を織り込むように一言一言吟味し書き込んで行くのが好きだった。案外、評判も良く、自然を表現した作品には自分も満足しており、出版社で募集している賞などにも幾度かは入選していた。
ただ、何時しか自分の書く物に行き詰まりを感じるようになっていた。憧れは現実感を失わせ、懐郷は生活感からの逃避をうながす。久志の生命力が源泉の底から根こそぎ奪われて行くかの様だった。プロとしての作家への誘いは紛れもない絶望への誘いと感じずに要られなかった。
 ほとんど大学にも行かず、一月ほど部屋に閉じこもり書くことに集中していた。腕を組み体を反らすように椅子へもたれる。中空の間に視線を漂わせて岩石のように身じろぎひとつしない。そうする間に、思考だけは駆け巡る。駆け出してはふいと立ち止まる。右へ向かうかと思えば、左へ行ってしまう。まるで子供達が野原で遊んでいるみたいに。

 見渡す限りの草原に春風がそよぎ草木の花々が甘く薫る。一人の少年が遠くを指差し、その方向に走り出す。他の皆が後を追って走り出す。幼女が長いスカートの裾に足を絡めて倒れると、その姉らしい少女が足を止め、その子を助け起そうとする。少女が振り返り、皆の行くへを見定めようとしても、もうみんなの姿は無かった。
ただ、少年が一人こちらを向いて悲しげに微笑むのだ。
一人こちらを向いて。

 初夏、例年の通り和也に誘われ、連れ出される。
和也は久志の幼なじみだ。線の強い体格のがっちりした男で、柔道か空手でもやっていそうな風貌の割に、美大に通い繊細な絵を描き上げると言った暴挙を自然とやってのける。サークルの展覧会を開くと言い、毎年この時期に連れだされる。

 白い翼が天に向かい羽ばたき、白鳥が今にも飛び立たんとする。脚もとの水面が揺らぎ、複雑な彩りを見せながら、太陽を乱反射させる。幾重にも輝く光に包まれて、神に祝福される生命の息吹を感じさせる。白と青の調子が軽やかな音楽となって今にも聞こえてきそうだ。

 命の泉だ。溢れ出る命が限りなくそこに在る。
ああ、命の泉だ。

 その絵に魅了された。久志の瞳に涙が溢れそうになる。

 それが美湖の絵だった。美江の妹だと言う。美江とは高校の同級で、当時から和也と恋仲だったので、良く知っているが、妹の美湖とはまだ面識は無かった。美湖を紹介しようと言う和也を久志は制止せずに要られなかった。

 美湖は小柄で柔和な細い物腰をしていた。キャシャと言うには何かひとつ筋の通った感じがして躊躇うのだが、それが、細面の頬がさらに細くなり、それを強調するように鼻筋が高い所為なのか、何処までも深く黒い大きな瞳の所為なのか、その両方なのか判別しなかった。全体にあどけなく愛らしい感じが残っているのだが、病的なほど白い肌が恐ろしくさえ思えた。肩まで直っすぐに伸びた黒髪がさらにそれを際立たせていた。

 少し離れた位置で、友人とでも話す美湖の声は聞こえないのだが、恐らく、ピアノ線を張り詰めた様にか細く研ぎ澄まされていて、幽玄の夜に響く弱々しくも美しい琴の音の様に和らいでいるのだろう。

 美湖を紹介しようと言う和也を久志は制止した。

 それから短い間で久志は最後の短編を書き上げた。

己の内で息づく感情が、暗闇にうごめく蛇のように陰湿で極限を越えてなお残忍な感覚が、自分自身を取り巻き絞め殺そうとする。その蛇から逃れようとするのか、逆に、絞め殺される時を待ち望むのか己にも理解できず、ただ、その時を待っている。自分が救済されるその時を。

 今まで書いてきたものとは明らかに違う。異質な精神がすべての焦燥と不安を取り除き、誰のためでもなく、ましてや何かを生み出すためでもない。終わるためなのだ。ただ、終わりのために自我の集約を試み、神の礼賛を享受する側に立つのだ。

 久志は最後の短編を書き上げた。

 枯れ葉も散り落ちた秋の終わり頃、久志は落ち着いた気分だった。大手商社の内定も在り、仲間うちも滞り無くと言った感じだった。誰かしかの内定祝いだと言って飲んでは騒ぐ、お決まりの酒宴も何度目かを向かえていた。
 駅から少し外れ小さな軒先の店が連なった裏通りから、幾つもの小路が蟻の巣のように延びていて、そんな中に久志の行き着けた居酒屋が在った。小さく細長い造りの店内は入り口を入るとまずカウンターがあり、その奥に机や椅子がひしめき合う。桧造りの板壁に囲まれたその狭い空間を照らし出す薄暗い明かりに煙草の煙が漂う。見知らぬ人間と肩が触れ合いながらも、喧しい喧騒に呆れながらも、なぜか落ち着いてしまう。ありふれた料理が意外な味わいを見せて、さもそれが当然のように顔を覗かせる具合に、なぜか落ち着いてしまう。それが桧の香りの為か料理の為か、それとも別の香りなのか考えるつもりはない。恐らく誰も考えないだろう。

 突然、和也に誘われた。
待ち合わせた店に、少し遅れて着いた。和也の声はそれと直ぐ解る。本人の描く繊細な絵からは想像できない低く太い声だ。和也と他に二人いた。丸い顔に丸い眼鏡をしてどことなく愛らしく見えるのが、美江だった。美湖の顔色は良くなっていた。細過ぎた頬も丸みを帯びて、桃色に染まっている。少し酔っている様に見えた。その日、初めて久志と美湖は話した。
 久志は美湖を知っていた。少なくとも、脆弱に見えるその内に、溢れ出る生命力を備えていることを。美湖も久志のことを知っているような口振りだった。しかし、それが今の自分ではないのだと、その時は言えずにいた。

 それから四人で会うことが多くなった。僅かな酒に酔うと和也の賢げな芸術論が飛び出す。それを合図に、昔の懐かしい映画から最近見た舞台まで、批判や絶賛が入り乱れる。時には大笑いしながら賛同し、時にはブーイングしながら机を揺すった。そんな若者達の力強さに、ある日、酒をまき散らしながら床に落ちたグラスが強く輝いた。ふたりはその一瞬を待っていたのだ。その深遠の底から沸き起こるような一陣の光が強く輝くその一瞬を待っていたのだ。

 久志と美湖がふたりで会うようになって半年近かった。夏の日差しが強すぎるのを久志は気にしていた。それぐらいのことでは大丈夫だと、美湖は言うのだが久志は心配した。一度、目の前で倒れられた事があったので余計に気がかりになる。美湖は心臓が弱く子供の頃から高校時代まで、何度も入退院を繰り返していた。年々、心臓も強くなり今では余程でなければ苦しくもならないと言う。
 久志は初めて美湖を見たときの、あの病的な白さを今でも鮮明に思い出す。そして、この儚げなかすみ草には力強い生命力が在ることも思い起こす。その不思議な力を与えたのが久志自身だったのだと聞かされるのは、次の夏が訪れる頃だった。

 美湖は青空を描きたかったのだ。

 久志は以前から知っていたはずだった。
久志が数年前に書いた「青空」が美湖に生命の息吹を与えた様に、今、美湖は久志自身に魂の開放を願っているのだ。

 久志は空を見上げた。

 青空に星が輝いている
幾重にも塗り重ねられた青の中に星が輝いている
錯覚ではない それは幻想なのだ
旅人のため 道標が輝くのだ 青の中に

 久志は美湖に向き直った。美湖は今でも小柄で柔和な物腰をしている。黒髪は短く切り揃えたが、大きく丸い瞳は変わらない。久志は、その大きな丸い瞳を輝かせ微笑む美湖の顔が見たかった。どうしても、今、見たくなった。
だから、久志は呟いた。ぽつり、ぽつりと。

INDEXへ戻る


ふぁんしい★ONLINE● ●めーる


JAGA
©1997-2003 JAGA
当サイトに掲載された内容を許可なく転載したらあかんねん。