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街という名の迷宮
海辺の迷宮
藤 久(1995年)

 原色のネオンが明滅し男と女が行き交う。車の甲高いブレーキ音やクラクションが絶え間なく鳴り響く。聞き取り様のない喧騒が一瞬何処かへ消え失せ、波が浜辺に打ち寄せる様に再び沸き起こる。現実と幻想が交差する街角は、見渡す限りの人波が荒れ狂う海のようになって美湖を翻弄する。この異様なまでにエネルギーを秘めた海を、何方へ向かうべきなのか、その方向を見失いかけていた。美湖は久志の指し示す方向へ、この荒海を進もうとした。そこにふたりの世界があると信じていた。
 美湖にとって久志こそが羅針盤だった。

 森林の草木に朝露が輝き、美湖のまだ開けきらない瞳にはまぶし過ぎた。初夏の朝を彩る多彩な光を求めて、美湖は山際の田舎道をひとり散策していた。久志は旅館の部屋でまだ眠っているはずだ。久志の子供の様な安らかな寝顔に、起こしてしまうのが不憫に感じ、ただでさえ寝起きの悪い久志なので余計にためらってしまい、美湖は静かに寝床を出た。そのことを少し後悔しないでもなく朝露に濡れた小道に歩を進めた。
 小道の脇をせせらぎが静かに流れ、その向こう側に幾分小さめな鳥居が在るのに気づくと、その参道へと人を渡す小さな橋が架かっているのも目には入って来る。
 石橋だった。
 少し丸みがかり、アーチ状になったその欄干もない橋は随分古びて見えたが、何処か新しい物のようにも感じた。
 美湖は橋の中ほどまで進み立ち止まった。上流から微かな風がそよぎ運んで来る。初夏の日差しを浴びて、新芽が生きずき新しい命を咲かせようとする香りが美湖の黒髪にそよぐ。
 美湖は誘われるように瞳を臥せた。鳥のさえずりが四方から時をおいては届く。せせらぎが右から左へと流れる。その中に川魚の跳ねる音がひとつした。もう一匹跳ねまいかと耳を済ませたが、それっきり二度と姿を見せなかった。
 美湖は脅える様に瞳を開いた。するとせせらぎの川面を銀色に輝くものが泳いだ。その後を追うようにしてもうひとつ輝いた。美湖は黒い大きな瞳を丸くして微笑んでいた。しばらくの間、身じろぎひとつせず微笑んでいた。

 小高い丘よりはまだ幾分山らしいと言えるその山の中腹辺りに大岩が肌を露出し空を望むように突き出ている所がある。そのそばに、二人が腰掛けるのに丁度いい具合の石が丸くなっている。そこに美湖と久志は落ち着きひと休みする。風が通り抜けて気持ち良かった。汗の引いていく心地好さを初めて知った。心臓の弱い美湖にとって自分の足で山を登るのは初めてだ。息苦しく感じもするが頂上まで行ってみたいと思うのも本当だ。これが小説なら無理をしながらも頂上に登りつめ感動のハッピーエンドを迎えるのだろうか、久志ならどう書くだろうか、そんなことを考えながら美湖は大きな瞳をきょろきょろさせる。久志は大岩を見つめて何やら考え始めたようなので、その問題は後にして、自分はスケッチブックを開いた。

 その瞬間、美湖はスケッチブックの上で踊る様にきらめいている。その姿は中世の社交パーティーでレースのドレスに身を包み軽やかに舞う少女の様であり、舞台の光線を浴び激しく力強いカルメンを踊るジプシーの女にも見える。そして、久志は落ち着き払った紳士にもなり陽気に酒を喰らう男にもなり、美湖の傍ら静かに寄り添う。
 美湖はそんな時間が好きだった。ふたりの閉ざされた空間に音楽も言葉もいらない。美湖は新たな命を生み出し、それを刹那の閃きに描き込む。ふと手を休めると久志がいる。中空の間に視線を漂わせ言葉と戯れている。時折、視線が合う。それだけで全身を覆い尽くしてなお余りある幸せを感じずに要られない。美湖はそんな時間が好きだった。

 風が外界を遮るように吹く。プリズムを透過した光が七色に輝くように、その向こう、遠くに見える町並みを現実から引き離し、昇華された魂だけが小さな波となって打ち寄せて来る。聞こえるわけでも見えるわけでもない。感じると言えば大げさかも知れない。ただ、知っているだけなのだ。心の底に隠したつもりでも忘れられないことを。

 美湖と久志が結婚してもう6年になる。人並みな暮らしを送りながら美湖ははっきりとした不安が在った。学生時代は何も迷わなかったし、ふたりが結婚した当初も感じなかった。結婚した友達が揃って子供を生み出した頃、初めて、心の底に黒い染みが落ちるのを感じた。自分は子供を産めないのだ。久志はそれで良いと言った。その言葉を信じてここまで来たのだ。それなのに黒い染みは年々大きくなって行くように思えた。それが自分の道なのかと感じていた。

 土曜の晩は着飾って街に繰り出す。お洒落なレストランは若い恋人達に占拠されてつまらない。だから行き先は久志に任せる。イブニングドレスを着た私をとんでもない場所に連れていくのが好きだから念入りに着飾ったりする。でも、久志がいればどんな場所でも溶け込んでしまう。凪いだ海に舟を浮かべ風任せに揺られるような心地好さがある。土曜の晩でなくても良い。月曜日でも水曜日でも。ただ、日曜日はだめ。日曜の海は荒れ狂う。私を不安の底へ沈めてしまうから。

 美湖は久志の腕に捕まり、波に抗う様に不安と戦って来た。これからも自分は不安という荒波と戦い続けるのだと思っている。それが自分の道なのだと。

 二日目の晩になると仲居の女性もこちらに慣れてか良く喋る。元来、喋り好きなのか、とにかく愛想が良く、それほど狭くもない部屋に良く響いた。料理の用意をしながらこの温泉町のいわれや自分の子供時代はどんな様子だったかなど話す。裏の山手にある権現様は子宝にも恵まれるのでまだなら行けば良いと言う。決して悪気はない。そんな時、美湖は健気に微笑んで見せる。

 その夜、美湖は夢を見ていた。
橋の向こうに鳥居が見えていて、その鳥居の奥から美湖を呼ぶ声がする。美湖に子供を授けるので取りに来いと言う。美湖が喜んで橋を渡ろうとすると、久志が腕を掴んで引き留めた。悲しそうな目をしてだめだと言う。久志がその橋を指差して、美湖だけなら渡れても、子供を抱えて渡ると崩れると言う。美湖はそれでも渡ろうとする。泣きながら渡ろうとする。美湖はそんな夢を繰り返し見た。

 朝開けきらぬ内から目が覚めていた。黒い闇色の天井に視線を凝らしていると何処からともなくせせらぎの音がする。川魚が跳ねる音がした。すると直ぐに二匹目の川魚が跳ねた。その時、美湖は久志に聞きたくてたまらなくなった。橋を渡ろうとする自分を本当に止めるのかを。山でのことをどう書くのかを。

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