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遥かな昔より、そこに立たづみ人々の暮らしを支え、見守っていた。
杉や桧、赤松、ぶな、こなら、様々な木々が在り、幾重にも原生林と植林が入り交じる。鳥や獣たちを優しく包みこみながら、畏怖を以って人々に接する。
夏に、力強く、溢れる生命の神秘を輝かせながら、春には春の顔を持ち、秋には秋の顔を持つ。冬、厳粛に凍てついた空気が満ちて、なおさらに、生命の吐息をうかがわせる。
二つの峰を重ね合わせ、こち山とあち山が立たづむ。
柔らかな風に吹かれ、頭を垂れた稲穂が揺れ動く。まるで、潮騒が浜辺へ向かうように、向こうに立たづむ山々の裾へ目掛けて、黄金色の波が走って行く。秋風が吹き付ける度、たわわに実った稲穂の一本一本が無造作にそれでいて規則正しく揺れる。その都度、久志の心も波立つ様に思われた。
神々が宿ると言われしその黄金の実であるけれど、いかにも脆く、脆弱に見える有様に、吹く風に耐えず、穂先はへし折れ、命を携えたその実が大地へ投げ捨てられるのではと、不安に駆られるのだ。
久しぶりに見た稲田(=いなだ)の実りは何とも形容し難い面持ちをしている。久志は妻を伴い母方の田舎へと里帰りしていた。
野分(のわけ)
北へ反れるはずだった台風が進路を少し変えてしまった。
雨戸を締め切った部屋の中で、刻々と勢力を強める風の音を聞き分ける様に、身じろぎひとつせずに久志は座した。美湖は縋る思いで、夫の手を握りしめ傍らに身を置いていた。
遥か遠くかのように聞こえる、木づえの打ち合う音は、まさに、二人の持つ葛藤そのものの様に響く。
美湖が身籠って三ヶ月が経とうとしていたのだ。
心臓が弱い美湖にとって出産は容易くなかった。
久志は美湖と結婚する以前から子供は諦めていた。
美湖もそのつもりだった。確かにそのつもりだったのだ。
雨粒が屋根を激しく叩きつけ、今にも突き抜けて来そうだった。雷の音はその音ゆえに全てのものを破壊尽すようで、まるで、この世の終わりが直ぐそこまで来ているような気持ちにさせる。そして、そちらこちらで渦巻く風が得体の知れぬ魔物へ変貌し、この世の全てをなぎ倒した後に、久志と美湖に襲いかかってくる。
美湖は女として母になる宿命を背負い、妻として久志の子供を産みたかった。何より彼女は彼に愛されたかった。永遠に。全てを、何者をも犠牲にしようと。
久志は男として家族を守る宿命を持ち、夫として美湖を失うことは出来なかった。何より彼は彼女を愛し続けたかった。全てを、何者をも犠牲にしようと。
朝方、風も弱まり雲間の所々が明るくなっていた。鶏の遠鳴きを遮るように子雀たちが忙しげに騒ぎ始めているのを、枕辺に聞き入っていた。美湖は握り締めた手にそっと力を込めた。すると、久志の手が暖かく握り返した。珍しく、久志も目覚めが早かったらしい。美湖は握り締めた手を自分の頬に手繰りよせ、そして、甘えた。久志は不意に起き上がり美湖を引き寄せ、強く抱き締めた。頬と頬を重ね合わせずっと抱き締めた。
ほのかに薫る甘い香りを抱き締めたまま、久志はカーテンを開け放った。二階の窓から見える稲田の姿は昨日までと明らかに違っている。自然の恵み、豊なる生命の息吹き、古代よりの育み、祈り、苦労や喜び、諸々の在り様を実らせた黄金の稲穂が根こそぎ倒され無残な姿のみ残されていた。
今やもう何も唱わぬ老いた語り部の如く、脚を折り、背を曲げ、うつ伏せるように座り込み、ただ死の訪れを待ちわびる。
そんな無残な姿のみを残していた。
しなだれた稲が右へ左へ波打つように折り重なっている。収穫を前にほとんどの稲が駄目になってしまった稲田の間を通る細い畦道を久志は歩いた。美湖もそれを追う様にして歩いた。二、三歩足を進めては立ち止まり、辺りの様子眺めては、また歩を進める。久志が、時折、しゃがみ込んで数本の稲を手にしてみる。美湖は久志の両肩に手を乗せ背中に縋りながらそれを覗き込むようにする。久志の男らしからぬ美しくしなやかな手のひらの上で今にも生き絶えようとする生命がそれでも金色の輝きを失ってはいない。逆に、何かを訴えようと輝きを増すかのようでもある。
久志はどれほど強く、溢れ出るほど豊かな生命力を携えようと、雄大な自然の摂理が時として見せる尊大な魔王の仕打ちに耐え続ける事は出来ないのだと、首を振る。
美湖はそれが脆く弱々しい自分であると思い知らされ両の手を震わせ力を込めていく。
終始無言のままそんなことを繰り返してるうちに、何時しか累々と積み上げられた屍の平原を歩む様な錯覚に捕らわれていくかのようだった。
幼子を胸に抱きながら横たわる母親の全身からおびただしい血が流れ出す。そんな血まみれのマリア像が無限に積み重なっている間を、幾つもの、幾つもの血の滴がやがて川の様に一筋の流れとなる。その中を、その道を久志は彷徨っている。
嵐になぎ倒された稲田の畦道に二人は佇む。
久志の祖父が村の人達数人と何やら真剣に話し込んでいた。祖父と同年代の人達や久志と変わらぬ年の男たち。数度話したことのある者から良く見知った者。内容は聞かなくても想像できる。今やそこはゴミ屑の山でしかないのだ。損害としてはどうなるものなのか、災害に対する保証も有るだろうし、久志には見当もつかないが、この変わり果てた商品の後始末は大変なのだと聞いている。刈り入れる為の機械が使えない。しかし、放って置く事も出来ないだろう。
手作業だ。
手に鎌を持ち、一握りの稲を刈るのだ。一握りずつ、一握りずつ丹念に刈り入れて行くのだ。捨てるためではない。収穫なのだ。人の成した行為をただ無駄にせぬため刈り入れるのだ。
太古の昔より受け継がれた人の道だと言う。
易々と諦めてはいけない。自然の力に抗うことは無謀な努力に等しくとも、簡単に捨ててはいけないのだ。努力と希望と諸々のものは我々人のものなのだから。
久志は祖父に言われるまま、鎌を手に持ち田に向かった。稲を収穫する、そのことは決して初めての事ではない。機械が上手く使えぬ変型した角地など、手作業で植え込み、刈り入れたりもする。しかし、これほど膨大な量を、自分の手で刈り入れるのは初めてだった。途方も無く無為なことを始めようとしている自分をただあざ笑うかのように久志の口元が緩む。しかし、それ以上に異様な輝きが久志の瞳に溢れ始める。
その荒れ果てた稲田の中央で、まるで狂人のように一心不乱に鎌を振り続ける己の幻影が久志にははっきりと見えるのだ。それこそが、人面獅身の魔物なのだ。それがいったい何であるのか久志は知っている。それ故に、その幻影を目指すように久志は一歩、一歩進んだ。
腰をかがめ、倒れた稲を一握り引き起こす。その根元から鎌の刃で刈り切る。それを綺麗に積み重ねて行く。それだけの作業をただ黙々と繰り返す。さして暑くもない日差しに、汗が滲み、滴り始める。何度も汗を拭い、痛む腰を伸ばさずに居られなくなる。そうしてまた、腰をかがめ、何かに取り憑かれたように鎌を振るい続ける。
稲の切断される音。空を切る鎌の音。一束一束積まれる稲の音。それが僅かに崩れ広がる音。虫や鳥の鳴く声。小川を泳ぐ者の声。風のそよぐ声。在りとあらゆる声が激しく渦巻き、久志を翻弄しようとする。久志はそれらを断ち切るように鎌を振り、ただ、その存在たる行為に意識を集中して行く。そうすることで無為な音から開放され山の声だけが久志に残る。
久志は僅かな時間で昼食を取り、その後もろくに休憩せぬ有様で、日の暮れるまで戦い続けた。
美湖はその姿にただ、唯、見入っていた。そして、夫の決断に素直に従うだろう事を感じていた。
全ての稲が刈り終わった一区間の稲田の中央に、赤い夕日を受けながら久志は佇む。久志が手にする鎌は死神の鎌だった。人の命を断ち切る黒く長い柄をした死の鎌だ。人の寿命を司る儚い蝋燭の炎を刈り切る為のものだ。
迷いは無い。
己の手で、何者の命を断つことに成ろうと、後悔はしない。たとえ、それが己の命を断ち切る事で在ろうと。
久志は、幾年、幾十年、命を育み続けてきたその稲田の中央に、一人、刃の折れた鎌を手に佇んでいた。
極星が輝く、青く透き通る空へ向かい、淡雪のように真っ白な白鳥が飛び続けている。極星が強く輝く度に、白鳥も強く羽ばたく。二つの者が一つであることを確かめ合うように、強く強く輝いては翼を大きく広げる。
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