|
不浄な濁りを全て焼き尽くし鮮明な色彩だけを際立たせるような、そんな真夏の太陽の下、緑に輝く透き通った微風が山間に吹いていた。手前の山の稜線を覆うように遠い向こうの果てまで濃淡のグラデェーションが続き、青い空と白い雲へと姿を変えるパノラマはすがすがしい感動が在った。その新緑の中を柔らかに蛇行する国道を赤い車が静かに走り続けていた。橋を渡り短く小さなトンネルを抜けるとダム湖の脇に幾つかの人家が目に付き、山間の小さな町に差し掛かったのが解る。ものの五分で通り抜けてしまう町の中心街と言うのも珍しくなく、何処となく懐かしい町並みはあっと言う間に途切れてしまう。右手に白くきらめいて見える河原を背景に佳貴が音楽に合わせてリズムを取る。佳乃はそんな姿を可愛らしくも愛しくも思う。和やかな夏休みを取れそうで二人とも満足していた。
深い谷を眼下に見下ろしながら、ドライブインが国道を抜けていく旅人を待ち構えている。佳貴は不意に駐車場へと車を入れた。少し強引な運転に佳乃は驚いて、小さく短い悲鳴を挙げ、
「何よ、急に。危ないじゃない!」
と、佳貴に振り向きながら言う。佳貴は車のエンジンを切り、ハンドルに頭を乗せながら、
「悪い、ちょっと眩暈が・・・」
「大丈夫、運転かわろうか」
「・・・」
「佳貴・・・」
佳乃が不安気な顔で佳貴をのぞき込むと、佳貴は佳乃に笑顔を向けて体を起こし、頭を軽く振る。
「うん、何でもない。少し疲れたかな」
「それじゃぁ、ちょっと休んでいこ」
佳乃はまだ不安気なのを笑顔に変えて言った。
ドライブインはまだ新しい様子で今風の明るく洒落た造りだった。店内に所々置かれた観葉植物も生き生きとした姿を見せており、いかにも真夏の昼下がりに一休憩と言った風情に思えた。佳乃はテーブルに乗り掛かるようにして、差し向かいに座る佳貴の額へ、小さく柔らかな手をあてて、
「熱は無いわね」
佳乃のその細い手首を右手で掴み自分の額から剥がし、左手で手のひらを合わせるように握り込む。
「大丈夫だよ」そう言って、左手に力を込める。それに答えるように佳乃も力を入れる。
藤原佳貴は今年大学を卒業してから就職するでもなく、特に何をするでも無かった。時折、プログラム関連の仕事を頼まれサポート的に手を貸した。その方面では在学中から名の通ったプログラマーで、バグの処理、ウィルス退治、ブレインとしてのアドバイザーなどで食べることは出来た。しかし、それ以前に佳貴の資産は膨れる一方でその管理が彼の仕事とも言える。投資や投機だけでなく、企業経営に乗り出そうかとも考えていた。ただその前に佳乃との事が気がかりだった。この可愛らしい双子の妹を女として愛していると自覚したのは大学卒業の日だった。
卒業式を終えて悪友と呼ぶべき友人達と数人でいつもの喫茶店「パンドラ」へと行った。どこかのゼミで見たかと思う顔や良く見知った顔、サークルの後輩やら同輩と言ったように、そこの店はほとんど学生達に占領される毎日だった。佳貴も誰彼となく連れ立ってよく来たものだった。佳乃とも何度となく来た。
「私、パフェにするわ! 佳貴は?」と、気怠く甘い声でしゃべる佳乃とよく恋人同士に間違えられた。佳乃も悪戯好きで、そうなるとわざと恋人の振りをする。良く見れば双子だと直ぐに解りそうなものだが、意外にピンと来ないらしい。その時もそうだった。
初めの悪友共にサークルの後輩達が入り交じり、いったい何処までがグループで何人集まっているのか、まるっきり解らない状態になっていて、誰も彼も少し酔ってきたのか、ざわめきが益々大きく成ってきたかと言うとき、不意に辺りが静まり返った。天使だか幽霊だかが通ったと言うあの状態だ。
扉がチャペルの鐘を高らかに鳴らしながら開き、まさに天使と見紛う様に真っ白いワンピース姿の佳乃が現れた。長い髪を三つ編みにして頭に巻いたのが天使のリングをなぞらえている。
佳貴の時間が一瞬止まった。
小学生の頃、よく泣かされていた佳乃は中学に成って笑顔が眩しいほどだった。高校生の佳乃は何処となく陰が見えかくれして、短大では明らかに無理をしていた。仕事に就いて少しは気が紛れるかの様だったが、やはり何かに迷っていた。そして何かに苦しんでいた。俺に打ち明ける事も出来ない何かが佳乃を苦しめ、俺はそれを憎んだ。そして今、俺はその何かを悟った。愛だった。近親愛。愛してはいけない者を愛した苦しみが佳乃を苦しめ、今、俺を襲う。
この瞬間、佳貴の心の奥に潜んでいた愛が目覚めたのだ。
辺りにどよめきが再び沸き起こり、何事も無かったかのように佳貴の腕時計の秒針が時を刻み出す。その喫茶店では何も起こらなかった。ただ、佳貴が自分の心に気づいただけだった。
「佳貴!」と、佳乃は明るく良く通る声で叫び、手を振る。悪友たちが手招きをして、佳貴の隣に席を作る。佳乃はゆっくりと優雅な振る舞いで席に座ると顔見知りに挨拶を交わし、お冷やを持ってきたウェイトレスに注文する。
「フルーツパフェにするわ!」
悪友の一人が取りあえずビールを勧める。佳乃は車で来ているけれど、祝いの席だから、お愛想に一杯だけならと断って、佳貴のグラスを持って注いでもらう。佳乃は囃されるままに一気にビールを飲み干してしまい、グラスを佳貴に渡すと新たに注ぎ入れた。そんな様子を見ていた後輩の一人が佳乃と佳貴の関係を取り沙汰すると、事情をよく知った悪友達は含み笑いをして、佳乃に目をやる。佳乃は佳貴の腕を抱え込み、
「決まってるじゃない!」とあっさり言ってのける。
「佳貴と私はステディーな、か・ん・け・い!」
何時もなら、佳貴は黙ってばかばかしいと言った素振りで成り行きを見ていただけだが、この時は佳乃の肩を抱き寄せて、
「俺の最愛の女で、佳乃だ」などと、興に乗って見せた。座が一気に盛り上がり、二人は話題の中心へと押しやられた。
佳乃は佳貴の腕を掴む手にそっと力を込めて、嬉しそうに微笑む。嘘でも、お芝居でも良かった。目の前に置かれたフルーツパフェの鮮やかな色彩が、そのまま佳乃自身の心を表現していた。メロンの緑は穏やかな落ち着きを見せる森林浴に似ていた。白いアイスクリームは純粋な心。オレンジは暖かさ。苺の赤が燃えるような思い。ピンク色のチェリーは愛らしく切ない願い。ブルーキュラッソのマリンブルーは果てしなく広く深く、神秘でいて雄大な古代ギリシャ神話に名を残す女神ビーナスが抱く愛情。きらきら輝くさざ波のように押しては引き、引いては押し返す、限りなく溢れ出づる愛情の色・マリンブルー。
ふとしたことで立ち寄ったドライブインのその窓辺に映る青い空が夏らしさを増したように感じられ、その日差しに吸い込まれていくようなまどろみを覚えていた。二人は朝早くから車に揺られ続けた疲れを開放するように、ゆったりとした姿で腰を落としていた。佳貴はコーヒーにミルクを入れながら、黒と白のコントラストが交わるのを佳乃と自分の二人の未来と重ね合わせ、喜びとも不安とも言い得ぬ妙な感じがしていた。何時の頃からだったのか、ブラックでコーヒーを飲む父、数年前に死んでしまったその父に影響され、ミルクも入れずにコーヒーを飲んでいた佳貴が佳乃に言われるままに飲み方を変えていた。佳貴は自分自身が様変わりすることにこだわりは無いが、傍目に二人の関係があからさまになるのに抵抗はあった。しかし、佳乃への愛を自覚した、その時から感じ続ける至上の幸福感に、何者も勝りはしない。佳貴が目を上げると、佳乃が幸せそうにパフェを眺めていた。
「メロンシロップね!」と、佳乃の唐突な言葉に佳貴が理解出来ないでいると、佳乃は言葉を続けた。
「ほら、佳貴の大学の、いつもの喫茶店。あそこのフルーツパフェは、アイスクリームにかけるシロップ、青いヤツじゃない。お酒のちょっと入った。でもここのはメロンシロップなのよ!」
「ああ、あそこは夜になるとカフェバーになるから、リキュールも沢山あるからね。その方が良かったんだ」
「そうじゃ無くて、ちょっと感動したのよ!」
「どうして?」
「小学生の時だわ! 私、一時期、よく苛められてたじゃない。それほど、陰惨なのじゃなかったけれど、私としてはね!」
「・・・・・」
佳貴と佳乃の二人が小学六年になってしばらくした頃、それまで一度としてそんなことが無かったのだけれど、佳乃はクラスの女の子達に苛めの的にされた。クラス全員にと言うわけでもなく、佳乃自身の言葉通りそれほど陰惨でも無いにしろ、突然、訳も分からずなされることに傷つかぬわけでもなかった。佳乃は夏休みが待ちどうしかった。夏休みになれば彼女たちに会わずに済むのだから。そんな、夏休みのある日、佳乃が泣きながら歩いていた。佳貴が学校で野球をした帰りに、そんな佳乃を見つけて呼び止めた。
「佳乃! どうしたんだ? 何、泣いてんだ?」
「・・・・・」
佳乃は首を振るだけで何も言わなかった。この時もそうだったが、佳乃は苛められた事で、一度として佳貴に泣き付かなかった。気丈夫なわけでもなかったのだが、なぜかそうしなかった。
「お前何か変だよな。どうしたんだよ?」
佳乃は又も首を振るだけだった。
「よし、おじさんとこ行こう」と、そういって佳貴は佳乃の手を引っ張った。佳乃は兄の手を強く握り返し、赤くなった丸い大きな瞳から涙を零しながらも尽き従った。おじさんの所と言うのは、佳貴と佳乃、二人の父母の共通の友人が経営する、少しは歩かねばならないが、駅前で家の近くの喫茶店の事だ。二人ともそのおじさんの顔を覚えるほどには、父母に連れられて行っていた。その店で佳貴はコーヒーと妹にフルーツパフェを頼んだ。
「今日は二人だけかい? それとも、後からお母さんが来るのかな」と、おじさんが言うと、佳貴は、
「今日は二人でデートさ」と、おしゃまな事を言う。佳乃の目の赤いのを見て取ったおじさんはそれ以上何も言わず、カウンターの中で仕事をする。その時も窓辺のテーブルに座り、二人は夏の日差しに包まれていた。
「佳乃、お前は、このフルーツパフェの様だ! 佳貴はね、そう言ったのよ。あの時! 覚えてる?」と、小首をかしげ、佳乃は恥ずかしげに微笑む。佳貴も照れ臭そうにして、その時の事を覚えては居るのだが、
「さぁ、そんな事が在ったかなぁ」と、とぼけて見せる。
「あの時の、パフェわね、メロンシロップなのよ! 佳貴と二人で初めてのデートを、私は忘れないわ!」
窓を透過する夏の日差しが二人の兄妹を際立つ時間へと変貌させる。空間がメタモルフォーゼを引き起こし一枚の絵画と成るような、柔らかな最上の至福を描き込んだルノワールの風景画と成るような、そんな錯覚に捕らわれる瞬間だった。
|