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街という名の迷宮
星空の迷宮
藤 久(1986年・2003年)

『街と言う名の迷宮』の原点です。初稿は86年、確か三日で完成させたけど、当時は完璧だったのに、何故か、あれこれ訂正しました。「星空の迷宮」03年改訂版、遂に発表だーい!

2003.11.1 藤 久

 世界は不鮮明だった。
薄くも厚いガラスメッキに覆われて、ありとあらゆる物がひしゃげ、歪められて、真の姿を止めていなかった。その不鮮明な世界の内側で、逃れようのない強迫観念に襲われ、俺の心は今にも押し潰されようとしていた。その時の俺は合理と矛盾に満ちた現実と幻影の世界に彷徨い、流されて、疲れ果て行くしかなかった。

 夜の闇をコート代わりにまとい、俺は、気怠い体を引きずる様にして、酒と煙草の匂いに満たされた、何時もの馬鹿騒ぎへと向かう列車の中だった。
 軌道を持たぬ様なお伽話の列車に揺られ続けながら、やるせない溜め息を吐き、俺は目を閉じる。眠れる森のかの少女に憧れ、さめざめと泣いている俺は穏やかで静寂な空間に眠りたかったのだ。赤子の様にただ泣くしか出来ない自分のその泣き声が己を嘲笑う様に列車の中に大きくこだましている。
 しばらく、うとうとしながら、そんな夢を見ていた。
 ふと気付くと列車が甲高い金属音を立てながら速度を緩めていた。乗り換えの駅の一つ手前で見慣れた思い出深い駅だった。俺の心で懐かしさと重苦しさとがないまぜになる。昔、愛していた女性の住む家がこの線路沿い近くにあり、もう少し進めば列車の中からでも充分に見てとれる。俺はそれを心待ちする様に、しばらくの間、向こう側の窓の外へと視線を送った。夜も更け、住宅街から都心へ向かうその列車に人影は少なかったが、数人の乗客が俺の視線を遮っていた。それを避け、座席を立ってまでもと思う程に、俺自身、もうさほどに関心を持ってはいない様だ。それでも人と人の合間をぬい、一枚のガラスに隔てられた暗闇の中に灯るその窓明かりを見つけた俺は、彼女とのその何も存在しない触れ合いに、安堵にも似た喜びを感じ、軽い溜め息をつく。
 しかし、いつ頃からそうだったのか、その喜びと共に心の奥底に、何か得体の知れない陰が差し、上気した顔が一瞬にして強張り、悲しみにも似た心の叫びを感じずにいられない。それは俺自身も、もう彼女のことを愛していないと暗示しているのかもしれなかった。俺が一つの真実として彼女を愛し続けたいと、そう願ったにも拘らず、彼女を思い出の人として、過去に追い込めようとしていることへの悲しみなのかもしれない。
そして、その愛と忘却という反目が俺の心を引き裂き、また、それに似た表裏の精神世界が俺を追い詰めるのだ。何者を信じれば良いのかさえ解らぬ矛盾に満ちた混沌とした世界は、泥沼にも似て抜け出そうともがいても、総てが徒労に終わってしまう。ただ、身の裂けんばかりの苦しみに息すら許されぬ圧迫に恐怖しもがけばもがくほど、とめどない感情の嵐に襲われて逃げ場を失ってしまう。そして、それ故の焦燥が遣り場のない怒りと共に、俺の精神を内部から破壊し退廃させてゆくのだ。真実とそれに矛盾する真実とが交錯し、そこから抜け出すことを許さぬ迷宮で、俺は平穏を得る手段もなく、ただ、立ち尽くすだけだった。

 いつのまにか再び列車は停止していた。数少ない乗客もほぼ全員降りた時、俺は慌てて列車から飛び出した。そこから少し歩けば階段に差し掛かる。俺は数メートル先の階段脇にあるエスカレーターに少し目をやりながら、ゆったりと一段づつ階段を登り始めた。いつもならその狭いエスカレーターに多くの人間が群れ、逆に、広い階段は気がひけるほど空いているのだが、この時間では代わり映えしないようだ。普段、そんな事を考えもしない俺が、その時に限って、次に降りる駅での利点を考え、列車の最後部に乗れるよう、歩いていた。
 そうして、その時初めて、俺はその女性に出会った。
10000ボルトの電撃が身体中を突き抜ける衝撃を感じた理由でもなく、業火の中に身を置く程に肌が熱く焼き尽くされるのを感じた理由でもなかった。
ただ、辺りの空気が冬の湖の様に透き通って行くのを感じ、乾いた砂に清水が浸みるかのごとく、俺の心の底へと、彼女の存在が、何かと共に、刻み込まれるのだ。
感動にも似た一瞬だ。
 その場で彼女を形容するのはかなわぬ事だった。ただ、畏敬の念にかられ、彼女を正視することすら許されぬ様な思いに支配されるしかなかった。
俺に出来ることは、ただその場から逃げ出すこだけだった。そして、彼女のその存在に心震わせながらも、それを掻き消すかのように、少し離れたベンチに座る。そして、気を鎮めようとする俺は薄暗い雲に覆われた夜空にしばらく目を向けていた。それでも、彼女の存在は俺の心を捕らえ続け、俺は彼女を横目に垣間見た。
 鼻筋がすんなりと伸び、印象的な瞳で虚空を見つめている彼女の横顔は、気高く崇高な存在を感じさせた。
 夜闇の薄暗い灯りのホームの中に、古ぼけた白黒映画のワンシーンが、浮かび出た様に、彼女は静かにたたづんでいる。何者にも犯されることのない真実という姿が、そこにあるのだと感じた。
 古より光輝く、偉大な芸術家達の、どんな名画でさえ、神秘なる彼女の存在に彩りを与えることは叶わぬだろう。それは幻影に触れようとする盲目の狩人に似ている。その時の俺は何処か果てしない深遠の世界へと誘われるのを感じていた。

 速度を緩める列車が単調な重みのある音を立てながら、俺と彼女が居たホームへと入って来た。幻影から現実へと呼び戻された俺はベンチから立ち上がり、狼狽しながらも、何事もないように、列車の方へ近付き停車するのを待った。
列車はドアの位置を俺の立つ所から少し外して停まる様子で、俺は再び歩を進め、そして、彼女との間が開くにつれ、俺と彼女の出会いと言う物語が総て終わったと感じていた。その時、自分の歩の向きを変え、その得も言えぬ思いを、又、神秘なまでに感じられたその女性を見届けようかと考えてもいた。思案に暮れる様でありながら、決意などと言う大それたものを、微塵も必要としないことだと解っていた。
 俺はそのまま向きを変えずに数歩進んで立ち止まった。列車が停まりドアが開くとともに乗客がなだれ出た。
それには何も感じはしない。ただ、呆然と見送り、大事な宝物を失った子供のように寂しげで、気の抜けた様で立ち尽くしていた。
 目の前を行く人々の動く向きが逆さになった時、視界の端から中央へと動く影に気付き、それが何者であるか知った時、驚く以外に為すべき事はなく、そこに運命の存在を感じずにいられなかった。肩まで伸ばした漆黒の艶やかな髪を揺らして彼女が歩むのだ。
身長は160センチ程だろうか、さほど高くない彼女が大きく力強い存在に見えた。白い半袖のブラウスに長めのスカートを履き、肩からは大きな布製のカバンを提げていた。何処にでもいる普通の女の子にしか見えなかった。それでも、異質な雰囲気が彼女を取り巻いているのを感じた。彼女はそのドアの向こう側にある席へと向かい、俺は数秒間の躊躇を廃し、何か激しい衝動に駆られるよう、彼女の後を追った。四人程が座れる空間に、彼女と少しの間を置いて横へと座った。
 肌を合わせる事もない、ただ、その存在を感じ取るだけの、幻影とも言える触れ合いに、感傷的になりながらも、その反面、無関心とも思える自分自身に気付いた。
強いてそう努めていたのかもしれないし、俺の精神的な疲労感が興奮の炎を消し去ろうとしていたのかもしれなかった。それとも、初めからそこに興奮という俗っぽい感情は無かったのかもしれない。ただ、得も言えぬ機微が心の奥深く染み入るのを、僅かに感じていたに違いない。それがあまりにも大きすぎて、その存在の有無すら知れないのに似て、無感動に近い感動を覚えていたに違いない。

 それは虚無でしかない夏の夜の夢なのだ。

 だからこそ、俺は至福の余韻を残しながらも何事も無かったように振る舞おうとしていたのだ。
彼女が女神でも天使でもなく、又、聖域や神話に押し籠められぬ、この世の俗界に存在するありふれた女であると証すように、彼女は、有名人の下世話な話が中心で、それが真実なのかも疑わしい種の虚飾に満ちた雑誌を手にした。違うかも知れないが、正確な解答を求める気は無かった。そうすることでこちらの視線を彼女に気取られるのを恐れたのかもしれない。それとも、彼女が現実の俗世界に在るのだと、確信しながらも、それを追求するのを恐れたのかもしれない。俺にとって、彼女はそうあってはいけないものに思えた。
ただ、聖という見果てぬ夢をそこに見出だそうとしていたのかもしれない。

 背もたれたシートの後ろには、闇の中、満面に広がる光の海が流れていた。雲間から漏れるわずかな月明かりに照らされる山際の影が、空にその姿を像創る。そこには、列車の中のうらぶれた風景には無い重みと威厳が在った。それは彼女に感じるものと似ている。
 後ろに傾げた首が怠くなった頃、正面の窓へと視線を変えた。しかし、車内の光に照らされて、外部には視界がほとんど効かず、窓ガラスは薄らいだ鏡となって車内を映していた。
そして、その魔法の鏡の中、俺は初めて彼女を正面から見据えた。そこには、先程、横顔に見た気品と崇高なまでの美は無く、あどけない幼女のような面立ちに、知性を隠し持って可愛げな雰囲気だった。何処か懐かしさすら感じるのだ。

 細長な頬は白桃の柔和な印象を与え、柔らかく穏やかな調子で伸びた鼻筋のその先に、小作りで薄紅色の唇が微笑みを押さえる様に軽く引き締められている。清楚な表情に整えられた眉毛の髪量は少なめであるが、彼女の艶やかな漆黒の髪と同じで、何に臆する事もなく額の裾に添えられていた。
そして、上下に長くゆるやかに見えるまつ毛のその奥に、乳白色と闇色の瞳が丸く大きめに在り、全てが繊細な線で、そこに平穏を感じずにいられない。誰かに似ていると、そんな思いに捕われて、それが誰であるのか、思い出そうとしても思い出せないでいる。暗闇の森の奥深く、星々に照らされる神秘の泉から、細く流れ始めた記憶と言う瀬々良ぎの辺、俺は永遠に思い出せぬその存在を心に描こうとしているかの様だった。

 その時、長く単調な揺れを付していた列車が、忌まわしい金属の摩擦音とともに不快な重圧をもって、俺を幻影の世界から現実の空間に引き戻した。そこで、気付いたものは彼女がその駅で降りるのを暗示した動作だった。手にした雑誌を膝に乗せていたカバンへとしまい、手櫛で髪を整えていた。俺はある意味で出会いもしていない彼女との出会いを惜しむように、窓ガラスに映る彼女に見入っていた。彼女はそんな俺に気付きもせぬ風で、すっと席を立ち、ドアの方へと歩き始めた。俺は彼女を呼び止めたい衝動に駆られたが、その反面、それを、禁じる思いが反響していた。
 その時、彼女は不意に立ち止まった。
 窓ガラスに映った自分を見定め、身だしなみを整える彼女の姿は妖しい魔女の様で、俺はギリシャ神話に登場するメデューサと遭遇した旅人の様に、為すすべもなく、ただの石像と化して行く。そのお陰で、俺は永遠に近い瞬間の時を手に入れ、それは際限ない束の間、彼女を名残惜しむことを俺に許すのだ。
 それは神に与えられた時間なのか、それとも、彼女が女として美を意識し誇示するための時間だったのか、俺には到底理解できはしない。ただ、その束の間を俺は心から感謝し、彼女を眺め続けた。神をも恐れぬ不埒者と罰せられて然るほどの、俺のあらわな視線に彼女が気付いた様子にも躊躇せず、俺は彼女の与える至福を追い求めた。
 それでも、彼女はそこにいた。
彼女は見られると言う美を持ち、それを意識した者だけが得られる賛辞に、酔い痴れていたのかもしれない。それならば俺の心の内で、彼女は聖女の地位を失い、ただの俗人に成り下がり、俺の憧れにも似た純粋な感情が崩れ去ってしまうのだ。俺はそのことを恐れ、彼女のその静止を偶然に起きた必然とでも神の授与物とでも、疑わず信じる事を瞬時に行なった。仮に、彼女が人の心を魅了するだけの、美を意識した行為と断定したにせよ、俺はそれを彼女の慢りとせず、慈愛と信じたであろう。
 彼女は俺にとってそうした存在であり、一種伝説の様な神々しさを感じさせるのだ。それを偽りと確信し、又、盲信と理解しながらも、神々しき栄光への憧れが俺を駆り立て、その破局を恐れさすのだ。
だからこそ、俺は彼女を呼び止めることも出来ず、ただ彼女の去るのを見送るのだ。そして、俺の前をゆっくりと歩き去る彼女の横顔には、やはり、崇高なまでの美を感じずにいられなくて、俺の恐れなど偽りでしかないことを思い知らされる。俺は俺の精神の内で、何かが豹変するのを僅かに感じていた。
 彼女の去った後、俺の心が微かに震えているのを感じた。それは混沌とした闇の世界に一陣の光が射し、新たなるものの創始が起こるのを目の当たりにした時に感じる様な、大いなるものへの畏敬とも感動とも何とも言い難いものだった。
 確かに俺の心の奥底で何かが豹変していた。
今まで漠然としていたものがそれ自身のままで在りながら、何か明らかな姿を見せ付ける様な、迷いが迷いでありながらそれに迷わぬ様な、新しい感覚を意識していた。悟りを開いたなどと大それたものではないけれど、何かそのような形容し難いものを知った、そんな気分だった。『何故』という言葉が何度も繰り返されたが、その解答を出せぬうちに、俺は幻影の世界から抜け出て、雑然とした世界に戻り、ひとまず解答を求めるのを見合わせていた。

 終着駅、俺は静かに列車を降りた。ホームには意外と人影が多かった。山手には住宅があるとはいえ、やはり、都市の中心、繁華街となるそこは、こんな時間でも人の動きが多いようだった。さらに、改札口を通り抜けて表通りに出れば、そこはネオンに輝き、酒に酔い上気した者や青ざめた者、足元のふらついた者達でごった返していた。大学生らしい男女のグループや、サラリーマン風の男達が行き交っていた。酒臭い三人の男達がまだ飲み足りないらしく、新しい店を物色する様子で俺の前を行く。
道の傍らでしゃがみ込む女を介抱する男がいる。何の当てもなく、ただ騒ぎながら行く少年達がいる。誰となく探すようにして行き来する少女達がいる。中高生ぐらいの少女達から実年に近い男達までが、そのネオンの下にたむろしているのだ。
 光り輝くネオンが気の狂わんばかりの光の渦を創っている。そこが狂気にも似た現実の世界だった。
不自然な自然が在り、排他的で在りながら人を欲していた。人の欲望が渦巻いた清水の波紋こそがそこなのだ。そこには、愛と忘却が、憎悪と悲しみが、純粋と不浄が、そして、諸々の現実と理想が、破壊と創造のようにお互いを否定しながらお互いを必要としている。
それぞれの矛盾が真に矛盾したものなのかどうか、それを問い尋ねる者、人面獅身の姿をしたあの魔物がそこにいるのだ。
 俺は決して好きでなかったこの世界に、憧れかしづく様に生きて来たのだ。今まで、目眩を覚え嘔吐すら感じてきたその世界に、何も動じず自然なままに溶け込んでいる自分に気付いた時、俺は何気なく空を眺めた。
付近の工場地帯や喧騒する車の群れが発したスモッグが、極彩色のネオンや街の明かりが、そこに輝く星々の光を遮っている。
少年時代、美しく妖しいまでの星空を見せたプラネタリウムでの、あの言葉が鳴り響く。
 本来、夜空には満面に輝く星々の姿が在るのです。人は何故、自分達の住む世界を破壊し、汚し、終には、滅ぼそうとするのでしょう。それは次世代への犯罪でしかないのです。
 その言葉が俺を悲しませ、怒りと焦燥を絶望さえも感じさせたのです。
 だが、今の俺にはそんな感情はなく、ただ、そこに見えるような気がしていた。零れ落ちた星が今にも降り注ぎそうなその星空に、俺は畏敬の念を感じていた。
 それは幻影で在りながらも、事実、そこに在るのです。


 何故そう思えたのか、何も特別な理由は無いのかもしれない。以前から、それを探していて偶然、それを見つけただけなのかもしれない。昔、熟した林檎が木の枝から落ちるというだけの事が、彼にそれを気付かせた様に、聖女とまで感じた彼女との出会いが、俺にとってその引き金となったに違いない。それは日常のほんの些細な事の中に、無限の姿をして在るに違いないのだ。
 ガラスのコップをつい落とし、それが砕け散ったなら、そこに深淵を覗く強い光を見いだすかもしれない。
闇を裂く音に身を任せ、風を斬る思いに身を任せれば、それと触れ合う事が出来るかもしれない。人の言葉を信じ従えばそれを見付け、人と触れ合えればきっと気付くに違いない。それは何処にでも在り、人が自ら気付くのを待っているのだから。
 混迷する表貌の内から、薄く厚いガラスメッキの内から、真実は何時もその姿を現わそうとしているのだ。


 俺は人の声とも獣の声とも判明せぬ声に紛れて、溜息をついていた。
人面獅身の魔物の問いを一つ解いた、安堵の溜息だった。
それは俺が平安をを得る為の手段を知った安堵の溜息だ。

 俺は今にも降り注ぐような星空の下、街と言う名の迷宮にたたずんでいる。

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