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暗い海
上島 浩(1980年)

 男は、ワイパーが走るフロントガラスの向うに広がる夜の都会が、全く耐えがたい淋しいものだと気付いたのは、恋人と別れて一時間ほど経ってからのことである。そう思うと、いてもたってもいられなくなった。自分でも何故そうなるのか分からないものがあった。雨は先程より強くなってきたように思えた。
 信号が赤になり、交差点で車を停車させ、サイドブレーキを引く時、はっとして、その手に入る力がうつろになった。というのは、横断歩道を渡る人の中に、ついさっきまで一緒にいた恋人の姿を見たように思ったからである。しかし、それは全くの人違いだと分かり、信号が青に変わるとともに、また雨の夜の水銀燈の並木道に車をすべり込ませていった。

「コーヒーが、さめるよ」
 その時、男は言った。小じんまりとした、感じのいい、コーヒーショップだった。
「いいわよ。これで最後なんでしょう。コーヒーの飲む時間だって惜しいもの。あなたと話さなくちゃ」
「……」
「私のわがままを許してくれたあなたですから、お礼にあなたを占ってあげる」
 と男の恋人はそう言ってほほえむと、十円玉を取り出した。そして、それをテーブルの上で回すと、その上から右手でおさえた。
「どっちだと思って? 表なら吉で裏なら凶よ」
 と言うのに対して、男は少し考えて、
「もちろん、吉だと思いたいよ」
 と言った。
「開けるわよ」
 恋人はそっと手をのけた。すると、かわいそうなくらい悲しそうな目をして言った。
「……裏だわ」
「裏」
 男は、ただそれだけを言い返してから、黙ってその店に恋人を残したまま、一人で車を走らせた。

 その男がこの恋人と付き合い出したのも気まぐれといえば、別れたのも気まぐれだといえる、そんな付き合い方だったといえるものが二人の間にはあった。
 それゆえ、男は別れたものの、何故別れたのかという理由すら見い出せないでいた。
 男は、さらに車を走らせた。いくつ信号機が頭上を通過していっただろうか。時は更に経って、深夜といってもいいくらいであった。
 男は気が付くと、大きな港の桟橋に来ていた。ふと、車を走らせて桟橋の先まで行ってみたくなった。再び発進させると、何故かスピードを増したくなり、アクセルを踏む足にも力が入った。倉庫がとぎれた所で止めよう。それからでも遅くはない。何故か、そんなのんきな気持ちが、男の心を支配していた。
 しばらく車を走らせても桟橋の先端は見えてこない。おかしい、もうとっくに海が見えてもいい頃なんだが、と思った。
 その時、男はふと、自分の運転する車の横の席を見て、はっとした。何故なら、恋人が座っていたからである。
 男は思い出した。今までぼんやりしていたものが、我に返った。恋人は、別れてから、男が数分後に戻って来てみると、喫茶店の横の高いビルから飛びおりて命を絶っていたということを。そして今は、彼女と同じ世界にいるということも知った。桟橋の暗い海は、波音を残していた。そして、雨はなおも降り続いていた。

初出/「ふぁんしい」4号(1980)
再出/ふぁんしい10周年特別号「Little Wings・SPECIAL」(1987.5.25)


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