|
尚也は日頃付けることなどない、ただ車の飾りでしかなかったそのサングラスを、どんよりくすんでしまった自分の瞳を隠すように掛けていた。レンズ越しのその薄暗い光景に何所となく安心できるようでもあった。そして、信号待ちするその赤い車の中で、視界を横ぎる人の群れに苛立ちを顕にしながらも、それを押え切れず爆発するには至らずに済む。
もしこの苛立ちに耐えきれず自分を見失ってしまえば、自分がいったい何をしでかしてしまうのだろうか。
右足でアクセルを激しく吹かし、左足のクラッチを繋ぐ。車が急に加速し、眼前の男を、次の女を弾き飛ばす。鈍い音を引きずりながらさらに加速する。突然の事態に驚き体が硬直しながらも、人々の顔がこちらを向く。見開いた瞳に恐怖以外は映らない。血染めの赤い車が嘲笑う様に人の群れを襲う。一人や二人は死ぬだろうか。それが男であれ女であれ関係はない。ましてや、老いや幼なさなど何の意味もない。ただ、生命あるものが肉塊へと変わる、それだけなのだ。
「太陽がまぶしすぎた」とただそれだけの理由で拳銃の引き金を引き、人を撃ち殺してしまった男の心境に近いものが在るのか、ただ歩道を行く人々に、気が狂いそうになる。
「ああ、だからサングラスをするのか」と、呆気た様子で言う。尚也は微笑した。何がおかしいのか理解らないのが、又、本人を笑わせてしまう。そして、ただニヤニヤと含む様に笑い、人の群れを見送っていた。
道路沿いに立ち並ぶイチョウの明るい緑が左右を走る。初夏の強い日差しの太陽の中、鮮やかにきらめいて見える。その木々の合間に垣間見える人々の姿には狂気を感じ無い。まるでスピードと言う目に見えぬ風の壁が、彼を守っているかの様だ。左前方で自転車を脇に止め、道端で立ち話をする人々。その向うでは、八百屋の店先で何を買おうかと物を見回す主婦。道路を挟む反対側では、駄菓子の店から子供達が飛び出して来る。ベビーカーを押す女性を素早くかわして走り去る。店先へ打ち水をする老婆。汗を拭きながら電話をする若いサラリーマン。どれもこれも穏やかで心に染みる懐しさがあった。
「まだ狂っていない。そう、苛立っているだけだ」
尚也は自分に言い聞かせる様につぶやく。
「大丈夫だ」
彼が自分に狂気を感じるほど苛立つ理由は、恐らく大した事ではないだろう。人に言わせれば実に馬鹿気た話しではないだろうか。ただ、愛した女に子供が出来ただけなのだから。人生というものを左右するに足る重大事ではあるのだろうが、逆に、諸手を挙げて喜ぶべき事でもある。確かに、二人は正式に結婚してはいないのかもしれない。が、今時そんな事も珍しくはない。経済的に子供を育てて行けないのなら、堕胎することも可能だった。子の母となる淳子も駄々をこねたりしない。それでも苛立っていた。それだからこそ、余計に苛立つのかもしれない。淳子が素直であればある程に、苛立ちは増すかの様だった。
確かに尚也にとって、今までにない大きく重たい選択肢をつきつけられた様なものだ。
今まで、ただ、世の中にすねた様に何も認めず、何も見ずに生きて来た。仕事についても何ヵ月も行かない。誰かが嫌だ、何が嫌だと言ってはすぐにやめてしまう。だからと言って仕事に就かずぶらぶらと生きる理由でもなかった。手早に次の仕事を探し、そこで一生懸命働くのだ。だが、何れ止めてしまう。そんな事を繰り返し続けて今に至っている。社会と言う在り方に抗うことは出来ず、自分自身と戦うことも出来やしなかったのだ。ただ、全てのものから逃げ出すような生き方しか出来なかった。自分自身、嫌という程に自覚があった。だからこそ、そんな自分が淳子や子供を守って生きて行けるのか惑わずにいられない。そして行き着く答えは、
「到底出来やしない」
尚也は苛立ちを吐き出すようにそう叫ぶしかないのだ。無論、自分の生き方を変えてみようとも考える。しかし、それは疑問を通り越して不可能と言う言葉にやはり行き着くのだ。それが定職に就くこともせず、不真面目に生きて来た男の負債なのだ。どれほどの自覚や願いや希望を持ってしても、払いきれない負債なのだ。
このままゴミ屑の様に生きる俺と一緒に居て、淳子が苦労する位なら、子供など捨てて別れてしまえばいい。それ位の誠意ならまだ俺の中にも残っている。確かに、淳子を愛しているのだから。それならば出来る。
尚也の赤い車が下町の古びた狭い道を走り抜けて行く。その危険な道を行くことに多少戸惑いはしたものの、近道を使わねば約束の時間までにかなり遅れてしまう。淳子をこの強い日差しの中であまり待たせたく無かった。尚也は道を急ぐ。見通しの利かない十字路や曲がり角に、注意深く走ろうとしても、苛立っている尚也の運転が荒々しくなりがちなのは間違いなく、しかも、道を急げばなおさらだった。停止位置を越えて車が停まる。アクセルを踏み込む。そしてまた停める。そんな事を繰り返す中、いつしか安全性の確保は無視され、機械的な作業の様に車を進める。そして瞬発的に激しくブレーキを蹴り込んで、車が悲鳴をあげるかの様に小刻みに揺れる。尚也の赤い車が停まった。
尚也は苦笑する。過敏に反応し過ぎだった。
黒い瓦を頂きにのせた白い外壁の上から、クスの大枝がひとつ覗き込み、誇らしげに、若々しい緑の芽を豊かに抱えている。毎年、剪定により切り縮められるのだが、翌年には新しい息吹きを吐き出している。一枝一枝が魂を持ち、その生き様を見せようと太陽に向う。青く生命溢れるその木洩れ日の下に、彼を驚かせた、古びた自転車の影が在る。
年老い、八十を過ぎようとする老人が、自転車につかまっていた。立っているだけでも驚く様な力なげな姿、細い腕、かがめた腰、細すぎる足首。そして疲れ果てた様に細くこけ、幾本もの皺が刻まれた顔。その顔がただ前を向き、自転車を押して進む。自転車の荷台の上に老女を一人座らせて進むのだ。老女は老人の後ろの背をただみつめている。粗末な服装のその二人が彼の前を横ぎって行く。白髪混じりの老女が小さな顔を下げて、こちらに会釈する。そして何やら自転車を押す夫に話しかける。にこやかに、涼し気に笑う夫につられて、満面に顔をくずす妻。彼はただ呆然と二人を見送っている。
柔らかな風が二人を包み込んでいる。降りしきる紫外線でさえ二人には遠慮するだろう。家々の木々が競う様に木洩れ日を注ぐ。
尚也は淳子を愛していることを実感していた。幾年の年月を経て薄れゆく愛などではない。一夜、一日を重ねるほどに熟成し、なお止めどなく溢れる愛だ。淳子は愛を育み、永遠の時を願うに価する女だった。尚也にとって、それ以上の存在かもしれない。どれほどの代償を払い、己自身の傷をさらにえぐる様にしようとしても、手放す事の出来ぬ女だった。
尚也はハンドルを握り締めたまま、深く息を吸い込んだ。
病院の近くで、プラタナスの木陰に車を停めていた。約束の時間を五分程過ぎても、淳子の姿はまだなかった。尚也は座席を少し倒し、横たわる様にしながら、反対車線の歩道を歩む妊婦を見つめていた。
三、四才位の子供が補助輪をつけた小さな自転車で母の後をついて行く。横へ入る小路のために歩道が切れる。微かな傾斜で歩道が下り、再び登る。妊娠して何ヵ月なのか見当できないのだが、いかにも重そうな体の母がゆっくりと進む。しかし、子供がそこを登りきれない。その子が先に行く母に甘えようとしているのか、それとも、ここまでの長い道のりに疲れ果て、真実そこを登れないのだろうか。小さな自転車は後ろ向きのまま、ゆっくりと下がって行く。子供が母へと叫ぶ。振り向いた母は、笑顔で何かをささやく。首を振る子供。しかたないと言った面持ちで母は道を戻り、子供の小さな自転車に少しかがむようにして、ハンドルの中ごろ辺りを持って引っ張ってやる。彼女の淡いピンクのマタニティーが柔らかに揺れる。幼い瞳は真直ぐに母に向けられ輝いている。
赤と緑の混色の葉の中に白く可憐な花が鈴生りに咲きこぼれる。そのアベリアの四角く刈り込まれた向う側で風が凪いでいた。明るく強い日射しの中で、様々な木々が命を讃える。その柔らかな緑の中に白い建物が静かに佇む。
そんな光景を尚也は黙って見つめていた。
淳子が手を振る。いつもの笑顔が尚也を魅了する。白で揃えたノースリーブにパンツの姿。細くしなやかな腕に絡むショルダーバックさえ白い。
透き通るような真っ白さで己を愛してくれる淳子を確かに愛していた。
尚也はサングラスをはずし、いつも通り車に飾りなおした。太陽がまぶしすぎることはなかった。
|