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ある冬の日のことだった。男は会社帰りの電車の空席に、携帯電話の忘れ物に気が付いた。拾っては見たものの、この代物の処遇に困惑した。しかし、電車を降りた途端、改札口を抜ける間もなく、その呼び出し音が鳴った。仕方なく通話ボタンを押した。
「あっ、つながった。よかった」
若い女性の声だった。相手のことなど考えない、勝手な言葉である。けれど、なくした本人にしてみると尤もだった。安堵感が先に立つのは当然である。
「そう、良かったね。ところで、一体、これをどうしたらいいかな」
男は言った。
「あっ、そうそう言い遅れました。拾ってくれて有難うございました。私、取りにいきますから、そこの場所を教えてください」
ここの駅名を告げると
「超遠い! 私の家、まだ五つも東の駅よ」
勝手なものである。じぶんの責任なのに、好きなように言っている。
「じゃあ、僕が届けに行こうか?」
「やっぱり悪いわ。私が行くから場所を教えて」
男は自分のいる改札の場所を教えた。携帯電話のボタンをオフにすると、溜め息をついた。そして、備え付けのベンチに腰を下ろしてコートの襟を立てた。
二十分程して、新快速電車が入ってきた。ドアから吐き出される人波の中から、こちらのほうに駆け寄ってくる少女がいた。意外にもきれいな目の子だった。私の前まで来て、微笑んで礼を言った。
「渡す前に申し訳ないが、そこの公衆電話からこの携帯を鳴らしてみてくれないか。僕にも確かに渡す責任があるからね」
少女は一瞬、真顔になったが、すぐに微笑んで、
「いいわ」
と言った。確かに携帯は鳴った。しかし、男は念のため、ボタンを押してそれに応じた。二人の奇妙な会話に少女は少しはしゃいでいた。
「ね! これで分かったでしょう」
「うん」
男は携帯を切って、手渡した。立ち去ろうとする後ろ姿を少女は呼び止めた。
「お礼に、少しだけお茶でもどうですか?」
「こんなおじさんと話しても楽しくないだろう。それに小遣いも無くなってしまうよ」
「でも……」
「じゃあ、こうしよう。気持ちだけいただいて、僕が出そう」
と言って、二人はひとまず改札口を出た。
男は、若い頃によく行った駅前の喫茶店に案内した。その頃と同じように名もない画家が描いた抽象絵画が目に入ってきた。
「僕が学生の頃、アルバイトの帰りによくここに来たんだよ。変わってないから嬉しいよ」
店内を見回した。
「へえ、そうなんだ。おじさんも青春してたんだ」
「おじさんはよしてくれ、これでも独身なんだから」
「え!」
少女は危うくコーヒーをこぼしかけた。
「バツいちだけどね」
「安心したわ」
「どうして」
「だって、おじさんのような年齢で独身だと、変だもの」
「おいおい、本当に独身の人に失礼だぞ」
そう言って、男も珈琲カップを口にした。
店は次第に会社帰りのOL達でこみあってきた。
「おじさんのことパパと呼んでいい?」
男のほうは、本当にコーヒーをこぼした。
「もちろん形だけよ。だって、そのほうが回りを気にしないでいいでしょう。変に思われなくてすむもの」
「他の人には変じゃなくても、僕らが変だ。でも仕方ないか」
渋々、承諾した。
「私、今日、初めて気が付いたわ」
「なにを?」
「よく、携帯電話の宣伝で『相手がいつでも近くにいる』というようなこと言っているけど、あれは嘘ね。さっき駅でお話した時、近くにいるおじさんが遠くにいるような錯覚になったもの」
何事でも、ものは言いようだ。確かにどこにいても耳許で喋ってくれるので、近くには居るようだが、近くにいる人も遠ざけてしまう弊害はある。考えてみれば恐ろしい機械なのかもしれないと男は思った。
どれくらいの時間がたったのだろうか。辺りはすっかり暗くなり、少女の帰宅時間も気になったので立ち上がった。
「そろそろ、帰ろうか」
「・・・・・・」
返事をしなかった。
「また、会っていい?」
不意な言葉に驚いた。
「僕はいいけど、なぜ」
「パパは、優しそうだし、何でも相談出来そうだもの。この店で三日後のこの時間はあいてる?」
「僕は仕事以外の時間ならいいよ」
男は何故こんな少女にまた会わなければならないのかと思ったが、彼女がそうしたいのなら、べつに断わる理由もないから引き受けた。店を出ると、少女は
「じゃあ、また」
と言って、笑顔で手を振った。男も胸の辺りで小さく手を振った。夕暮れが早くなった町並みの、色とりどりなネオンが眩しかった。
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