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山鳩
江島 亨(1999年)

 祖母が死んだと聞いて、女は北陸へ向かう夜行列車にとび乗った。五月の連休前だから切符もたやすく買うことができた。
 半年前、祖母が重体だと聞いて帰郷した時のことを思い出した。幸運なことには女がそちらへ向かっていく頃には容体も良くなり始めていて、病院に着いたときは意識もはっきりしていた。喋ることは出来ないが、手を握るとにっこりと微笑んだ。良かったと思った。事実、このことがなかったら、長い間、心が触れ合うこともなく、永遠の別れになっていたからだ。その後も、順調に回復していき、老人ホームの中ではあるけれど、普通の生活に戻っていった。
 油断していた。完全に安心しきっていて、この半年は祖母の体調の変化を気にかけないでいた。独り暮らしをしたいという自分のわがままを最初に理解してくれた大切な人だったから、悔やみたくないと思っても、そうせざるを得ない物が女の中にはあった。
 車窓を流れる都会の夜景がにじんでゆがんだ。

 早朝、列車は到着し、支線の始発電車に乗り継いだ。次第に夜が明けていった。普段は美しいはずの海岸線の景色も鉛のように重かった。
 両親は駅まで迎えにきてくれていた。明らかに疲れが見えた。特に母親は目が赤かった。
「べつに、来なくても家まで大丈夫なのに」
「いいの、外の空気にも当りたかったから」
 母はハンカチで少しだけ目頭を押さえた。父親は娘を気遣って、荷物を全部持った。家までの道中、必要以外の言葉を何も口にすることはなかった。たまには帰ってきて顔でも見せろと言っていた父もこんなときにならないと帰ってこない娘をどのように思うだろうと女は考えていた。
 見慣れた実家の玄関まで来ると祖母の名前が立て掛けられていて、裁判官の命令でも受けているような衝撃が襲った。すでに近所の顔見知りのおばちゃんたちがやってきて、忙しそうにしていた。
「ねえちゃん!」
 何年かまえに結婚し、小さな子供を抱いた弟がいた。何か言おうとしたとき、子供がぐずりはじめ、弟は困ったような顔をして、
「後で、ゆっくり話す」
 と言って、奥に行った。母の勧めで自分のいた部屋で少し休むことにした。居場所がなかった。すでにこの家では新しい生活が始まっていて、祖母が抜けたように、私の抜けた穴も、ゆっくりと回りから肉が押し寄せるように塞がれつつあるなと女は感じた。

 女が学校を卒業してから、家を出たいと言い出したのは、十年前だった。娘も年頃になると田舎の事だからいろいろと縁談はある。女のところにも話がたくさんあった。両親にしてみればあえて娘を遠く離したくはない。若いうちにいい人に会って、地元で結婚して欲しかった。反対する両親を説得してくれたのは祖母だった。
「私の様に、おなごが好きなことをやろうとしても出来ない時代があったのに、親の都合だけで反対しちゃ可愛そうじゃ」
 この一言が両親にとって殺し文句になった。後日女は祖母にこのことを尋ねた。
「おばあちゃんもやりたいこと、あったの?」
 女が言っても、ただうなづいて笑っているだけであった。結局、これを聞き出すことは出来なかった。
 今まで、やりたいことをやりはしたが、十分だとは思えなかった。しかし自分から出た以上簡単に帰りたくはなかった。そして、今まで時が経ってしまったのである。本当は自分の花嫁姿を見たかったはずなのに、せめて諦める勇気がそなわっていたならと、女はやりきれない思いに捕われた。

 幸い、雨だけは降らずに、お通夜、お葬式と滞りなく終わった。女も泣はらした目で親類縁者に挨拶した。
 弟と再びゆっくりと話すことが出来たのは、祭壇が片付けられて、人も帰り、静かになった時だった。
「この家も寂しくなっちゃったし、おねえちゃんも帰って来なよ」
「気持ちは嬉しいけど、私のことは心配しないでいいよ」
「結構、強情なんだね」
「そうかしら」
「でも、親父もおふくろも年だし、ばあちゃんが死んでめいってるから、一緒でなくても、ちかくにでもいいんじゃないかな」
「・・・・・・」
 いろいろな思いもあって、弟のそんな言葉は嬉しくもあるが、重くもあった。もちろんのことだが、何がどうであろうと、両親の事は一番に考える。一人者の女には、まだまだ二人に甘えたかったのも事実だった。

 身内だけの初七日法要をするため、仏壇の前に集まっていた。ふと、女は屋根の上で何かが鳴くのを聞いた。注意して聞いていると、それは山鳩だった。弟に言うと、「本当だ。珍しいなこんなときに」
「『ててぽっぽ』と言うんだったね」
「『ててぽっぽ』?」
 女は目を丸くした。
「忘れたの。おばあちゃんが、よく話をしてくれたじゃないか」
「ああ! 思い出した。山鳩の事だったのね」
 女は小さいとき、寝る前にしてくれたお話の事を思い出した。『ててぽっぽ』というのは次のような話である。

─── 昔、あまのじゃくな蛙がいた。山で遊べやと言うと、川で遊ぶし、川で遊べやというと、山で遊んだ。ある日、母蛙は病気になり、自分の命があとわずかだと悟ったとき、その蛙を呼んで、「私が死んだら、どうか川に埋めてくれ」と言った。何故なら、その蛙のことだから、山に埋めてといえば川に埋めるだろうから、その逆を言ったのである。ところが何を思ったのか、その蛙は今まで母蛙に逆らってきたことを悔い改め、今度こそは親の言うことを聞こうと、暫くして、その親が死んだとき、言いつけ通り川の辺に埋めた。
 ある日、大雨が降って川かさが増してきて、蛙の墓が流されそうになった。それを見ていた心の優しい山鳩が、そのことを知らせてあげようと「ててぽぽー、ててぽぽー」鳴いたのである。───

「会えるかな?」
 女は弟に尋ねた。
「誰に?」
「山鳩のててぽっぽに」
「山鳩? そりゃ山に行けば会えるだろうが、少し奥に行かないとだめかもしれないよ。それでもいいの」
「いいわ」
「じゃあ僕が案内するよ」
「いいわよ。道さえ教えてもらえりゃ一人でも行けるわ」
 手を横に振ったが、
「僕も、何だか会ってみたい。一緒に行こうよ」
 と弟は言った。
 女は、親不孝な自分を山鳩が呼びにきたと思った。自分の話を聞いてくれるのは、まさしくててぽっぽだけのような気がしていた。
 鐘が大きく二つ鳴った。そして、初七日法要による和尚の読経が始まった。

 次の日、結構日和も良くなってきた。家にいつまでいても、気も晴れない。そんなこともあって、山歩きすることは丁度良かった。
 弟が選んだ山道は、実家から二キロ程はなれた海岸線から山の中へ入っていく道である。暫くは松の間から見え隠れする青い海が眩しかったが、次第にそれも遠ざかっていった。風の流れだけが松葉を鳴らして過ぎ去っていった。弟は先を行って、草を掛け分けながら歩き易くしてくれた。時々、汗を拭うために立ち止まる。姉の我が侭に付き合ってくれる弟の大きな背中が頼もしく見えた。
「姉さん、疲れない?」
 振り返って言った。
「大丈夫よ。でも遠いの」
「もうすぐのはずなんだが、何しろ相手は気紛れな動物だから、同じところにずっといるとは限らない。もう少しだけ歩いてみよう」
 もし、全くいないのならどうしようかと不安もよぎったが、会いたいという自分の気持ちを押さえることが出来なかった。
 さらにどれくらい山の中を歩いただろうか。明らかに森の中ではあるが、日が傾き出したことがわかる。もうこれ以上は無理だろうと女は思った。意を決して言った。
「もうここでいいわ。引き返しましょう」
 といい終わらないうちに、弟が小声で、しかも興奮して言った。
「姉さん! あそこを見て。いるよ」
 遠くを指し示す方向の松の枝に、黒い点のようなものが動いているのが分かった。会えた!と思った。胸の鼓動がだんだん大きくなっていくのが分かった。
 逸る気持ちを押さえながら、鳥たちには気付かれぬようゆっくりと進んでいった。だんだん近づいてきたが、弟は女の動きを制して言った。
「これ以上は駄目だ。気付かれてしまう」
 女はここに陣取ることに納得した。息を潜めて、じっと草むらの中に身を隠していた。
 弟は、姉の顔を見て言った。
「姉さん。いつか言おうと思っていたんだけど、人ってものは、自分がやりたいことだとかさ、やらなきゃならないことだとか、本当には分からないものじゃあないのかなあ、一生かかっても」
 弟はさらに、続けて言った。
「親孝行てなものは、何かをするってことじゃあない。親不孝にならないようにすること、これが親孝行じゃないかなって思うよ」
「・・・・・・」
 女は実際にそうかもしれないと思った。
「そうだよ。父さんも母さんもそれ以上のことは思っていないと思うよ」
 そんな弟の言葉が、心の底に染みわたっていくのを感じていた。救われた気がした。いい様もない心地好さを生まれて初めて感じた。

 突然、弟が言った。
「ねえ、聞いてみろよ。山鳩が鳴いてるよ」
「ほんと!」
 と、言って聞き入っていると、今度は弟が目を丸くして再び叫んだ。
「横からも、後ろからもだ!」
 今まで気が付かないではいたが、山鳩は前方だけではなかった。回りに数知れずいた。何十羽もの山鳩が一斉に鳴き出したのである。

「おお!」
 二人は同時に声を発した。
 あまりにも不思議な光景であった。同じ山鳩といえども、多少ではあるが、微妙に音域の差はある。高い声で鳴くものもいれば低い声で鳴くものもいる。かすれたもの、子供のものなど色々だった。要するに人間のそれに個性があるように、山鳩の世界でも同じなのだ。
 だから、一斉に鳴くということになると美しいハーモニーになる。暫く、言葉を忘れて茫然としていた。

「読経だわ」
 女は言った。確かにそのように聞こえると弟も思った。人間の奏でない読経。それは言い様によっては真実のものなのかもしれない。伝えられなかった祖母への言葉が届いたような気がした。半年前、祖母が女に微笑み掛けてくれた時、伝えたかった何かが分かったような気がした。女は涙が心の底から絞り出されるのを感じた。止めようとしても自分ではどうすることもできず、後から後から泉のようにわきでてくる。
「ねえちゃん、よかったね」
 女は小さくうなづいた。
 やがて一羽、二羽と去って行き、読経は終わった。
 二人はようやく、この道をひきかえすために立ち上がろうとした。今からだと日暮れまでには帰ることが出来るだろうと女は思った。

「早稲田文学新人賞」投稿作品


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